等身大の72%

筆者自身の7割2分ぐらいの力が入っている。ジャンルとか更新間隔とかには縛られない。

2年ぶりの墓参

私は大学院生で、2年ぶりに東京へインターンに行っている。昨今の事情から東京に行くのも2年ぶりだが、祖父の墓参にいくのも2年ぶりだった。

墓参の際に車窓から見えた景色はずっと変わらない。ちょうど訪ねた時期が彼岸に近かったこともあってあちらこちらに人がいた。およそ墓地とは思えないにぎわいがあった。同行した祖母とはあまり長居せずに墓地からは立ち去ったがこの墓参りが次はいつになるのかとふと思った。次来るときも同じような景色をみて同じように墓参できるのか。その問いが頭をよぎったとき、自分のわずかながら築き上げてきた価値観が少し揺れた。ちょうど端のブロックを除かれたジェンガのような揺れだ。

昨今の事情を考えれば自粛するのは当たり前で、人命を重視することを考えればそこに関して全く異論はない。 だが、墓はともかく特に東京のような都会では、当たり前の景色はあっという間に変わっていく。 過去に固執したりしたくはないと常々自分は思っていたがこの風潮の中で意外なノスタルジアが自分の中にあったことに気づく。

インターンでかかわる技術はIT系なので、常に最新の情報についていく必要があり、郷愁に浸る時間などない。 それがいつの間にか私の人生への考え方のバックボーンにすらなっていたようだ。 むしろ今まで郷愁に浸っている人間を軽視し、軽蔑するところすら私にはあった。 しかし、やはり郷愁は人間の一要素であり、それが思想、政治的なバックボーンになるメカニズムが自分の中で響いた。

すべてのものには終わりがある。でも私はかかわってきたことを過去にしたくないし、私自身もだれかの過去にはなりたくない。現実と理想のギャップへの苦しみは今までありふれたテーマで、数々の人々に様々な行動を起こさせ、創作活動のべたなテーマでもある。自分はありきたりなことで悩まないと思っていたが、こんなことで感傷に浸ってしまうとは。

いつか折り合いをつけられるのかはわからない。つけられることが良いことなのかも。 ただ、これからその過去という現実と、自分の思いのギャップは私の人生に長く尾を引くのだろう。 快晴の空のもと、そんな曇りを心に抱いてしまった秋の日だった。