市場と日本について雑感
背景となるニュース
www3.nhk.or.jpガソリン代の補助は現在約17円。基準価格の168円に据え置かれるように支給。
— 大場紀章(エネルギーアナリスト) (@nuribaon) 2023年1月31日
補助額の上限は12月までは35円だったが、1月から毎月2円ずつ減少し、1月33円、2月31円・・・5月25円となるが、当面は差額は上限未満なので168円のままと思われる。
表の予算合計は6兆4501億円。https://t.co/GsWsWP9Cvz pic.twitter.com/5zYvXBG42G
なぜかディスインフレに対して市場原理導入を推し進める日本政府
今でこそ物価上昇を背景に、さまざまの物の値上げが繰り返されている。デフレ(正しくはディスインフレだが)になれきってしまった日本人にとっては記憶にない、もしくは生まれてこの方経験したことのない現象だろう。インフレは実質所得の下振れを強いるから、賃上げの機運が高まってきているのは歓迎すべきことではある。
しかしながら、ディスインフレ構造の中で日本人に根を張ってしまった「安い=善」というデフレマインドは消えるのだろうか。政府もそのデフレマインドが歓心を集められることを知り、この失われた30年の間に郵政民営化、電力ガス自由化といった独占企業解体、市場原理導入を推し進めてきた。しかし冷静に考えればデフレにおいては対処として価格競争をさせずに規制強化をやるのが手っ取り早いのは明らかであるのにもである。ディスインフレ経済においての市場原理の拡大はさらなるディスインフレを呼ぶ。理由は明らかだ。ディスインフレになれきってしまった経済においては売価を上げることによっては競争を勝ち抜けない。需要曲線が上方においては相当急峻になってしまっているからである。だからコストカットをするしかない。これがさらなるコストカットを呼ぶのである。いわゆる「デフレスパイラル」になる。
「市場原理」を理解しない日本政府
しかしながら市場は価格シグナルを送ることで人々に適正な需要水準を維持させる働きもある。しかしながらせっかく導入した市場のその働きを日本人、殊に日本政府が理解していない。これの代表例が上二つのニュースである。二つに共通するのは、自由化や市場導入によって市場が送り出した価格シグナルを政府が「適正な水準」でないからといって潰してしまっていることである。電力やガソリンにしてもコメにしても価格によって適正な需要を決めるべきであり(それらが適正な水準の生産量につながるため)、そのために市場を導入したのにである。
「市場」か「規制」か
今やコメはライバルとなる小麦の消費が伸びていることから自由な市場によって取引されるべきと考えるが、電力やガスについては価格弾力性が薄い。なぜなら価格が上がったからといって暖房や洗濯をやめることができないからである。このように市場での取引が向かない財もある。ディスインフレと真っ向から反対する市場原理導入を進めてきた政府には、最低限これまでの自由化政策の功罪について検証すべき時が来ていると考える。
ブコメのタグの略称一覧
自分も使ってて忘れそうになるので備忘録用に、特に大きな歴史上のイベントは略称を利用してブコメするつもりで、随時編集します
- USPE2020: 2020年アメリカ合衆国大統領選挙
- JPHRE2021: 2021年第49回衆議院議員総選挙
- RIoU2022: 2022年ロシアのウクライナ侵攻
2年ぶりの墓参
私は大学院生で、2年ぶりに東京へインターンに行っている。昨今の事情から東京に行くのも2年ぶりだが、祖父の墓参にいくのも2年ぶりだった。
墓参の際に車窓から見えた景色はずっと変わらない。ちょうど訪ねた時期が彼岸に近かったこともあってあちらこちらに人がいた。およそ墓地とは思えないにぎわいがあった。同行した祖母とはあまり長居せずに墓地からは立ち去ったがこの墓参りが次はいつになるのかとふと思った。次来るときも同じような景色をみて同じように墓参できるのか。その問いが頭をよぎったとき、自分のわずかながら築き上げてきた価値観が少し揺れた。ちょうど端のブロックを除かれたジェンガのような揺れだ。
昨今の事情を考えれば自粛するのは当たり前で、人命を重視することを考えればそこに関して全く異論はない。 だが、墓はともかく特に東京のような都会では、当たり前の景色はあっという間に変わっていく。 過去に固執したりしたくはないと常々自分は思っていたがこの風潮の中で意外なノスタルジアが自分の中にあったことに気づく。
インターンでかかわる技術はIT系なので、常に最新の情報についていく必要があり、郷愁に浸る時間などない。 それがいつの間にか私の人生への考え方のバックボーンにすらなっていたようだ。 むしろ今まで郷愁に浸っている人間を軽視し、軽蔑するところすら私にはあった。 しかし、やはり郷愁は人間の一要素であり、それが思想、政治的なバックボーンになるメカニズムが自分の中で響いた。
すべてのものには終わりがある。でも私はかかわってきたことを過去にしたくないし、私自身もだれかの過去にはなりたくない。現実と理想のギャップへの苦しみは今までありふれたテーマで、数々の人々に様々な行動を起こさせ、創作活動のべたなテーマでもある。自分はありきたりなことで悩まないと思っていたが、こんなことで感傷に浸ってしまうとは。
いつか折り合いをつけられるのかはわからない。つけられることが良いことなのかも。 ただ、これからその過去という現実と、自分の思いのギャップは私の人生に長く尾を引くのだろう。 快晴の空のもと、そんな曇りを心に抱いてしまった秋の日だった。
カランコエと月
カランコエを買った。
以前何かのドラマで見かけた。多肉感がありながら、淡い色の小さな花のその愛らしさはどうも私の胸に残り続けていた。ちょうど通りかかった花屋でその薄紅色の花を咲かせるそれを見つけて、手に取り代金を払った。
家に持ち帰って大きな鉢に植え替えた。ちょうど捨てるつもりでベランダに出したワゴンがあったのでそれの上に座らせると、ちょうど座った時の私の視点と同じ高さになりいい塩梅であった。日付が変わるころ、カーテンの隙間からのぞかせる表情は月に照らされ、美しい。昼の太陽に照らされた、しゃんとした表情とは趣の異なる憂鬱そうなその様は、かつての恋人の物悲し気な後ろ姿を私に喚起させた。なぜ彼女のそういうさまを見ることになったのかは覚えていない。忘れっぽくてあまりこだわりのない私の性ではあるが、そんなことを思い出した秋の夜だった。
かつて太宰は「富士には月見草がよく似合ふ」といったが、秋の半分に欠けた月には加藍菜がよく似合う。
新しいブコメのタグ[誤謬]を追加した
誤謬とは何か?
論理学における誤謬(ごびゅう、英: logical fallacy)は、論証の過程に論理的または形式的な明らかな瑕疵があり、その論証が全体として妥当でないこと。つまり、間違っていること。
Wikipediaの通り。妥当でない言明を含むエントリは、たとえそれがみんなが盛り上がっているエントリであっても[誤謬]タグをつけたブコメをするようにした。
ここで使った「妥当」とは、ある命題について「前提が全て真なら帰結も真である」ことを意味する用語である。
一般的な意味での妥当とは少し意味が異なるので注意。ここでは「前提が真であるなら」という言葉が入っていることがみそで、例えば
「4の倍数は2で割り切れる」は妥当な言明である*1。
だが次の例はどうだろう:
「すべての偶数が3で割れるなら偶数は6の倍数である」
この前提は偽である。しかし前提が真なら帰結も真なので「妥当」である*2。
このように「妥当」とは前提の真偽はさておいて、論証の形式の如何について論じるものであることに注意。
例えば?
ホットエントリであっても案外その言明が妥当でないことがある。
わかりやすいもので言うなら例えばこれとか。
昨日女子校出身のお友達が言ってた「女子校ではみんな人間になる」というの、面白かったな。
— 太田尚樹 (@ot_john) 2019年7月28日
男子校はみんなで男になろうとする。
男子が集まって生まれるのはジェンダーによる結束で、女子が集まって生まれるのはジェンダーからの解放なんだな。
まず、その人の考えやイデオロギーが自分と異なるから間違っていると言いたいわけでないことに注意。あくまで論理的な話のみである。
この中で誤謬といえるのは
男子校はみんなで男になろうとする。
男子が集まって生まれるのはジェンダーによる結束
の部分。
一行目は明らかな誤謬。
なぜなら全数調査も行っていないのに、
みんなという言葉を用いた命題はすべて妥当でないからである(その対偶を示すにしても、「みんなそうでないもの」の全数調査が必要となる)。
つまり「早まった一般化」*3に該当する*4。
加えて二行目の帰結は一行目と全く関係がない上にその論証が書いてもない。
よってこれは全体として妥当でなく、誤謬である*5。
この言明が全体として健全であるためにはどうすればよいか?
しかし、まだチャンスはある。私は、このエントリが妥当であるだけでなく健全であることを意図して書いたものとおもわれたので、どうすればこれが全体として健全となるかについて考える。ただし、一行目から二行目の間には論証の欠落があるので私が良いと思われる論証を補って示す。
答えは簡単で、これが全体として真、つまり健全であるためのレシピは以下の通り。
1. 「男になろうとする」「集まって」「ジェンダーによる結束」の意味を明確に定義する
2. 男子校生徒の全数調査を行い、一行目の言明が真であることを示す
3. 命題「男子校では生徒が集まっており、かつ男になろうとするものの集まりはすべてジェンダーによる結束をしている」の妥当性を示す
これだけである。
なぜこのタグを?
全ての人々の言説が論証を意図したものとみなすには無理があるとは理解しているが、
私自身かなりこういった類の誤謬を含んだ言説を目にする。
かといってインターネット上には膨大な情報があるがそれが誤謬であるかどうかをいちいち判断するのはなかなか難しい。
私自身インターネット上の巨人の肩の上に載らせてもらって様々な情報の真偽を判断させてもらったので、
今度は私自身がその巨人の小さな踏み台を提供できればいいなと思ったからである。
何を書いていこうか
どんな事を書いていくのかという備忘録を記念すべき第一ページに刻む。 まだいろいろと考えていて、加筆予定。
ジャンル
- 本
- 旅行
- 野球
- etc...